昭和23年獣畜専卒 足達卓治(東京都)
最近の学生諸君は、大学名がなぜ麻布なのか知っているだろうか。現在は渕野辺にあるが、大学発祥の地が東京の麻布だったと、うすうすは知っているだろう。
しかし古い卒業生は、麻布の「古川橋」といって、あの地名と校舎をなつかしく想い出すのである。
明治23年(1890)、大学の開祖である與倉東隆が、かねて畜産と獣医学術の向上に関心を寄せていた時の農商務大臣松方正義の依頼により、獣医免許試験受験者と既得者再教育のため、「東京獣医講習所」を開設したのが当時の東京市麻布区新堀町(現港区南麻布)であった。ここが発祥の地である。
この年、明治18年(1885)施行の獣医開業試験規則が廃止され、新たに獣医免許規則が公布され、免許を受けなければ開業できない制度になった。しかし学校で農商務大臣が認可した学則により獣医学を専修し卒業した者は免許を得ることができるとされた。東京獣医講習所も追ってこの指定を受ける。また蹄鉄工もこの年規則ができ免許制度になった。
さて話はもどるが、この麻布の地は、古くは永禄9年(1566)北条氏が出した掟や天正18年(1590)豊臣氏が出した制札に「阿佐布」の地名があって武蔵國白金之郷阿佐布と表示してある。元禄年間(1690年代)には江戸城外堀溜池の西南に位置する武蔵國澁谷のうち竜土・六本木など7村をまとめて阿佐布村と総称していたようだ。天正年間(1580年代)にはこの附近一帯で麻を作り、布を織り紙を漉いていたので麻布と書くようになったといわれる。文久2年(1862年)の江戸城一帯の地図には、後の新堀町に植村駿河守と堀石見守の下屋敷が描かれている。明治11年(1878)、かねて江戸市中を大区・小区に分けていた区域制度が廃止され、江戸中心部に15区を設け、区名は江戸城の城門から採用し、芝口門一帯を芝区、赤坂門一帯を赤坂区としたが、麻布一帯は中世紀以来の古地名を用い麻布区とした。また周辺に荏原郡など6郡を置いた。
その後明治22年(1889)東京市制が布かれ、更に昭和7年(1932)には、区部に隣接する荏原郡、豊多摩郡など郡部のうち、82町村を合併した20区を15区に加え35区とした。そして昭和18年(1943)東京府は東京都となる。終戦後昭和22年(1947)、35区は再編されて23区となるが、このとき麻布区、赤坂区、芝区の3区が合併され港区になった。
そこで、改めて明治9年(1876)の古地図をみると、江戸市中第十二小区内の麻布新堀町一番に松方正義名義の土地が記載されていて、その三番という土地が東京獣医講習所があった場所に当たる。このことから、松方が当時東京農林学校(現東京大学)獣医学部長だった同郷(鹿児島)の與倉に、獣医実務教育の向上を託すについて、講習所設置のための土地を斡旋したのではないかと思われる。そうとすれば、與倉はなぜ麻布の地を選んだのかという謎が解けるのである。そして與倉は、私財を投じながら関係者の支援を受けてこれを開設する。何れにしても、麻布が呱々の声をあげた場所であり、明治27年(1894)麻布獣医学校と名称を変えて以来、一世紀を超えて今なお「麻布」が受け継がれているのである。
さて私が麻布に入ったのは昭和20年(1945)4月であるが、学校は麻布区新堀町11番地にあった。
品川から泉岳寺前を通り抜けた都電が、目黒と五反田からそれぞれ白金・清正公前を通ってきた都電と、魚藍坂下停留所で交叉した次の停留所が古川橋停留所だった。この古川は、渋谷方面から渋谷川・宇田川と更に笄川を集める清流で、麻布区と芝区の境をなし、浜松町で東京湾に注いでいた。この古川に架る古川橋の上流に四の橋、下流に三の橋から一の橋という橋があってそれぞれ都電の停留所があった。附近には寺が多く、商店の点在する住宅街だったような記憶がある。今では古川は埋め立てられ、その上を高速道路が走り昔の面影は全くない。
その古川橋の停留所から横丁を入った左側に学校があった。明治41年(1908)改築の木造2階建てで、口の字型で中庭があり、休み時間などには角帽をかぶった学生が屯していた。入口左側に附属家畜病院があったような気がする。さて、当時は太平洋戦争のさなかで軍事教練が正科にあり、玉電(現田園都市線)大橋駅近くに兵器庫があって、入学直後から駒澤練兵場で教練をやらされていた。そして5月中旬野外教練と称して御殿場在の板妻廠舎(軍隊が演習で泊る兵舎)に1週間ほど行った。まさかその直後に学校が戦災に遇うなどとは予想もしていなかった。
ところで、昭和16年開戦の太平洋戦争も、昭和18年頃から次第に戦局が悪化し、この頃から米軍艦載機の本土空襲が始まり、翌19年6月北九州を最初にB29爆撃機の本土空襲が始まる。B29は4発のプロペラ機で高度1万メートルの上空を飛ぶ。当時の日本軍の飛行機はせいぜい双発で、そんな大型機は見たこともないから、高高度の青空に白い飛行雲は美しかった。
東京は19年11月B29の初空襲以後頻繁に続く。最大は20年3月9日夜半、B29約300機が大挙して上野・浅草・下町方面を襲い、死者7万6千人、焼失戸数26万戸の被害だった。大型爆弾の他に油脂焼夷弾というのが落ち、炸裂して火がついた油脂が飛び散り、木と紙でできている日本家屋はひとたまりもなく燃えた。
4月に入っても、京浜地区・城北地区と連日のように空襲が続き、そして遂に麻布にとって運命の日が来る。
5月25日、22時2分警戒警報発令、22時22分空襲警報発令、房総半島上空から都内中心部に侵入したB29約250機が、22時30分から2時間にわたり投下した爆弾は、250キロ級150発、大型焼夷弾が1,820発、それに小型爆弾146,750発(消防庁資料)というすさまじさ。麻布区内も7割が焼失、死者180人、負傷者1,500人という被害。母校麻布も一夜にして灰燼に帰した。やや古かったが近所から見れば瀟洒な校舎も、病院も、貴重な標本も全て失った。入学してわずか2か月あまりのこと。
(※現在、跡地に「麻布大学発祥の地」として記念碑が建立されている。)
勿論授業はできず、学生は動員に駆り出された。私達1年生も、半分は輓馬機動隊と称して品川の基地から馬車で物資を都内に配る役、半分は地元の消防署で望楼(火の見櫓)に登り火災発生を見張る役に就かされた。
そして暑かったあの8月15日、思いがけぬ終戦。麻布にとって戦争の代償は何一つ残らない。学校も学生も、これまでの目標を失い、開学後半世紀余にして存亡の危機に陥るのである。
しかし気をとり直して11月頃から授業再開となり、復興に動き出すが校舎がない。大橋の兵器庫跡、他の学校や工場跡を転々として、ようやく昭和22年渕野辺に落ち着く。ここに辿り着くまで学校当局の労苦と努力は計り知れない。学生も荒れ果てた陸軍兵器学校跡の教室や学生寮で、教科書もなく食糧もない3年生の1年を送り、学債も買って復興に協力した。渕野辺での第一回卒業生となるも激動の3年間だった。
この頃から麻布は不死鳥のように甦る。被災後60年、今では立派なキャンパスだ。しかも純血を保っている。
ふり返れば当時が懐かしく、麻布を出たおかげで今日まで禄を食むことができた。そして多くの先輩後輩の知遇を得てお世話になった。同窓の絆は遺伝子としてこれからも受け継がれていくだろう。その限りでは、同窓生は皆麻布のクローン人間である。
明治38年(1905)、当時の麻布獣医学校の卒業生が校友会を設立したのが同窓会の起源とされ、今年で奇しくも満100周年を迎える。
麻布大学はなぜ麻布か。いや、麻布は麻布なのだ。いつまでも。