○浅利昌男(昭和49年麻布獣医科大学獣医学科卒業、麻布大学名誉教授)
猪股智夫(昭和56年同大学院獣医学研究科博士課程修了、麻布大学名誉教授)
片山兵衛(日中口述歴史・文化学会 理事)

はじめに

greeting

2015年麻布大学が125周年事業の記念事業の一環として大学が所蔵している獣医学関係書の総目録を編纂(へんさん)し、その監修作業に絶大なるお力をお貸していただいた信州大学農学部名誉教授の家畜解剖学者であり獣医歴史学者でもある松尾信一先生(故人)から私(浅利)に送られてきた大正三年(1914年)の獣医学雑誌の記事のコピーが手元にある。それには今を去ること110年以上前の、大正時代初期の帝都に生まれて間もない私立三獣醫(獣医)学校の一コマの記憶が書かれている。
大正三年と言えば西暦1914年、今年(2026年)から遡って112年前、おそらく公害を知らない東京の澄み切った空の下に、現在の日本の獣医師界を質と量でリードする私立獣医師養成系大学の、若々しく発奮する黎明期の姿があった。東京獣医学校(現在の日本大学生物資源科学部獣医学科)、日本獣医学校(現在の日本獣医生命科学大学獣医学部獣医学科)そして麻布獣医畜産学校(現在の麻布大学獣医学部獣医学科)の私立三獣医学校である。この記事の文体全体が大正初期に書かれた格調高い文語調で、現代に生きる私どもには読解に苦労する箇所も少なからずあったが、本学大学院獣医学研究科出身の猪股智夫名誉教授および日中口述歴史・文化学会の片山兵衛氏の力をお借りしてこれを現代語にしたので、それを通してここに書かれている当時の私立三獣医学校の姿をご覧頂きたい。
これを読み起こすとその当時の生き生きした学校、校長や学生の様子を垣間見ることができる。この記事を掲載している雑誌名は獣醫学雑誌、発行元は獣醫学雑誌社である。現代の(公益社団法人)日本獣医学会の機関誌とは異なる、当時の商業誌であろう。そのひとつは【寄書】『都下三私立獣医学校及び其の校長』のタイトルで著者は礫山人(おそらく業界ジャーナリスト)という方が書かれたもので、もう一つは【叢談】『三大私立獣醫学校の異彩ある卒業式』のタイトルで、著者は通観居士(これも業界ジャーナリスト)という方が書かれている。いずれもペンネームであろう。
獣医醫雑誌の寄書、叢書では当時東京府(市)下にあった3つの私立獣医学校についてそれぞれの学校の校風、校長の人となり(其の一)、あるいはそれら学校の卒業式の特徴を比較しながら書き記したもの(其のニ)で、今となってはわからない112年前の、誠に久しい当時の学校の一面が浮き彫りになっていて興味深い。これを麻布獣医科大学、麻布大学獣医学科を母校とするOBOG諸氏に紹介し、ひととき112年前から今に繋がる母校に想いを馳せていただけたら幸いである。

其の一

【寄書】都下三私立獣醫學校及び其の校長
礫山人 著
獣醫学雑誌第10号 大正2年10月20日発行
(まずは大正時代の格調高い原文に触れて頂くために一部、原文のままで掲載する)

麻布に於ける麻布獣醫畜産學校、澁谷に於ける東京獣醫學校(東獣)、目黒に於ける日本獣醫學校(日獣)、之を都下三大私立獣醫學校と為す。之を花に譬(たとえ)ふれば麻布は桜の如く東獣は梅の如く日獣は夫(そ)れ桃の如きか。
麻布の地、三田と相対して慶応の軽捷敏快(けいしょうびんかい)なる気分に同化するもの多きを見、澁谷、目黒の地、早稲田、駒場に相近ふして一は峻峭(しゅんしょう)、一は豪宕(ごうとう)兩つながら相承(そうしょう)くるに於て最も善しと為すべし。三校の特色異彩は特り之のみならず、今や各校主校長の名に依つて將た人に由つて遺憾なく発揮せられつつあり、此処に少しく之を説かん。—(以下略)

(現代語訳)※または( )内は浅利注釈

greeting

麻布にある麻布獣医畜産学校、渋谷にある東京獣医学校(東獣:現在の日本大学生物資源科学部獣医学科)、目黒にある日本獣医学校(日獣:現在の日本獣医生命科学大学獣医学科)を都下の三大私立獣医学校という。これらの学校を花に例えるならば、麻布は、東獣はそして日獣はであろう。麻布という場所は、三田の慶應に向かい合う位置にあり、そのせいか、慶應(の学生)の身のこなしが身軽で判断が素早く、きびきびしていて気持のよい雰囲気に影響された学生が多い。渋谷(東獣)や目黒(日獣)は、早稲田や駒場に近くて、引き締まったまじめな気風と、豪快でおおらかな気風という、二つの特色をうまく受け継いでいる点がとてもよい。
これら三校には、それぞれはっきりした個性があるが、その特色はこうした土地柄だけに限らない。今では、どの学校でも主に校長という人物を中心として、その人柄によっても学校の色合いが十分に表れてきている。ここで、そのあたりのことを少し述べてみたい。

麻布は先代の校長の中西氏※1を送って新たに深谷敬一氏※2を迎えた。しかし実質的な校長は変わらず、(それは)校主の獣医学博士の與倉東隆(よくらはるたか)氏であり、重厚な校長である。東獣はこれと異なり、校長という人物の存在が大きな意味を持っている。現在は獣医師でありかつ代議士である廣澤辨二氏がその人である。日獣は先代の深谷周三氏に代わって獣医学博士である西川勝蔵氏を推薦し、一番適切な人を得ている。そしてこの三人はともに駒場(駒場農学校)の出身者で、とりわけ最先輩と称せられている。西川・與倉の二氏はわが国獣医学の最高学府第一期・第二期の人である。廣澤氏もこれに次いでいる。西川氏はその後、畜産行政の要衝に当たり、與倉氏は当時の農林学校※3の教授の職を辞して、自ら獣医学教育を始めるという、前例のない試みを行い、その流れが今日まで続いている。廣澤氏はこれとは多少趣(おもむき)を異にして実地の牧畜業務に従事し、この学問の活用を試み役所に勤め、馬に関する行政を任され、引退後は民間(団体)の連合を図って推されて代議士になり、この学問と業界を代表する唯一の人と認められている。これら三者三様の人をそれぞれ校長に戴く都下私立獣医学校は、もっとも多幸多栄にしてしかも稀有の隆盛と言わざるを得ない。

※1 ※2 ※3  クリックすると注釈がご覧いただけます

※1 中西氏
  中西多策氏(第8代校長:在職期間は明治45年―大正2年)
※2 深谷敬一氏
  深谷敬一氏(第9代校長:在職期間は大正2年―大正5年)
※3 農林学校について
  東京農林学校は駒場農学校と東京山林学校の2校が明治19年(1886年)に合併して開設された官立の学校。学部は農学、林学および獣医学から成っていた。

この隆盛の意義は必ずしも学生の多い少ない、校舎の壮麗か否か、などで言うべきではない。つまり学校の気風が盛んで他を圧倒するほどの気概のあることで語るべきなのである。しかしながら三氏三様の人格と威信が各方面に向かって発展・拡大するのをもって三校の将来を占うことはかなり難しい。すなわち三人の校長の人柄と、それぞれの三校の在り方を、全体を見渡す形で簡単に紹介しておくのは、ちょうど今がふさわしいことを(自分は)知っている。人の評価は簡明な方がよい。まず麻布の與倉氏を一言で尽くせば『智の人』で、東京(東京獣医学校)の廣澤氏は『情の人』、日本(日本獣医学校)の西川氏は『意の人』である。意力旺盛の西川氏はよく努力し、よく励み、用意周到・思慮綿密にして後の大成が期待できる。人情味があふれる廣澤氏はよく(人を)愛し、よく慈しみ育てて周囲に諮ってわきあいあい、これにより有終の美を望めよう。頭脳明晰で、知的エネルギーが激しく燃え立つタイプの與倉氏はよく計画を立て、縦横に文才を振るい、うまく交渉をまとめる手腕を発揮して、最初に立てた目標をきちんとやり遂げることができる。麻布は與倉氏方式の実現で内容・外観ともに全て華々しさを見ることが出来る。東獣は廣澤氏方式の実現で大人風の有様を窺(うかが)える。そして日獣は西川氏方式の実現により今後に期待できる。それはそれとして三校三氏おのおの一長一短がないわけではない。そこで長(所)を取り、短(所)を補って我が国獣医学(界)の、将来に実力を発揮し得る逸材たちを、高みに飛躍させる事業に集中されることを望む。時あたかも晩秋、霜の気配が周囲に迫る頃、野の草木はすべて紅葉になろうとしている。国家のため、切に三先生方がお身体を大切にして自愛されることを祈る。

 

其の二

【叢談】 三大私立獣醫學校の異彩ある卒業式
通観居士著
獣醫学學雑誌第16号 大正3年4月20日発行
(まずは大正時代の格調高い原文に触れて頂くために一部、原文のままで掲載する)

春風駘蕩(たいとう)、鳥歌ひ花笑はんとするの三月は、正に是れ都門負(ふ)笈(きゅう)の遊子が其業成って錦衣故郷に帰るの時、来燕雁去一年中の最も多忙時にして、又最も快哉の時なり。我が帝都に三大私立獣醫學校あり。一に麻布獣醫畜産、二に東獣、三に日獣は是れ。然り而して三校斉(ひと)しく此の月を以て其の卒業式を挙ぐ。居士幸にして之が凡(すべ)てに列するの栄を荷い、始めて三校の各特色と異彩とを旬日の間に通観することを得、由って聊か三校が今日あるの所以と其の将来の一端をと(とを)知するに至れり。百聞は一見に如かず。一見の価値は未見の半解に勝さる。居士、帰来瞑目一番すれば、歴々として三校の隆々たる前途は洋々たる祝福謳歌の声中に展開されたるを看取すべし。慶すべき哉、賀すべき哉。然れども亦静に彼此甲乙を比較対照すれば、各々一長一短ありて、其の歩調の整一ならざる、其の活動の不同なるは固より其所たり。—(以下略)

(現代語訳)※または( )内は浅利注釈

春風がのどかに吹き、鳥がさえずり花が咲く三月は、まさに首都に書物を携えて勉学のために出てきた学生たちが獣医師になって錦を飾って帰郷する時節である。一年の内でも渡り鳥同様、人の往来が多忙な頃で、また愉快な時でもある。さて我が帝都(都下)には三大私立獣医学校がある。一に麻布獣医畜産、二に東獣、三に日獣がそれで、この三校がひとしく今月に卒業式を挙げる。私は幸い、この全部に列する栄に預かったので、これら三校の特色と異彩とを十日の間に通観できたのである。そこでいささか(各校が)現在ある理由とその将来の一端とを知ることが出来た。百聞は一見にしかず、実際に一度見て確かめることは、見もしないで分かったつもりになっていることよりずっと大事である。以来私は落ち着いて考え、はっきりと、この三校の今後発展していく将来が、明るく希望に満ちた祝福の謳歌の中で広がっていく様子を見てとることができ、まことに喜ばしいことである。しかし一方冷静にそれぞれ甲乙を比較対照すると一長一短はあり、その歩調が均一でないこともある。
そこでまずこれを花に譬えれば麻布はで、東獣は、日獣は※4になろうか。麻布が今、満開の花のように勢い盛んな最盛期にあるのは、ちょうど東獣が持つ、鋭く澄みきった純粋さに相当し、日獣が自らの信念を高く保ちながら、静かに相手を受けて立つという、あの趣深く立派な姿こそが、その学校の持ち味であるのと同じようなものだ。私はそのいずれにも愛憎はなく、好悪は世間にお任せするとして、私自身は三校の将来像や現在地を十分説明できるのは珍しい巡りあわせである。とりわけ、それらを卒業式で見聞できた。以下、挙式の順に三校の特色と異彩をおもむろにはっきりさせてみよう。

※4  日獣は松

  其の一の、寄書の著者は日獣を桃と例えているが、其の二の。叢書の著者は日獣を松に例えている。

 

▲東京獣医学校(現在の日本大学生物資源科学部獣医学科)
都下渋谷区恵比寿ビール会社前にあるので、あえてその場所柄だからといって、本場ドイツのミュンヘンの真似をしているつもりはないが 、後で述べる日本獣医学校がフランスのアルフォール※5を理想とするに対し、少なくとも常に(酒で)溜飲を下げる青年団をここにも発見できる※6。時に大正三年三月二十一日、花曇りにて花は閉じ、春寒なお首元を去らない午前十時、どこからか梅の花が豊かで香しい香りを届けてくれる頃であった。
この時、式場準備ができて来賓と教職員一同は着席。式次第は広澤校長の勅語奉読(ちょくごほうどく)※7から開始した。校長は現役代議士にして獣医学士、以前農商務省牧場課長から馬政官であった者である。彼は一旦下野すると産馬同好会を組織し、雑誌『日本之産馬』を発行、また大日本産馬会の理事として事実上の会長代理となっている。すなわち業界での名望と勢力とは近来いっそう加わり及ぶものがないといわれるほどである。声の出し方はこれに勝るものがおらず、加えて態度は落ち着いており厳格で、しかもどっしりとしており、その大きな体つきと立派な風貌も、この学校の重々しく威厳のある雰囲気をいかんなく表しているほどである。証書授与は型通りに終了し、校長の訓辞が始まると一層面目を発揮し、上手に卒業生が世に出てからの対応を教えた言辞は本期帝国議会における唯一の畜産家として諸種提案議題の中心人物たる面影を発露するものといえる。
校長の訓辞に次いで、来賓演説の真っ先に登壇したのは、前清国学部顧問、現東京帝国大学文科大学教授文学博士服部宇之吉氏である。氏はまじめで厳格な性格がうかがえる一方、装いやたたずまいはすっきり洗練されている上品な雰囲気の人で、フロック姿に包んで現れ、開口一番流暢な弁舌にて満場を魅了して、おもむろに人格修養の要点に言及し、ことわざにある鶏の料理に牛刀を使うことの不要との言葉と同じで、世渡りは無駄なことをせず、要点を抑えて的確なやり方をとることが秘訣で、これが世の中をうまく生き抜くことと諭し、学生に感動を与えた。
服部博士の後に馬政官安井淳之助氏の演説があった。その要点は私は残念ながら捉えられなかったが、主に本校には、政治家たる広澤代議士、学者としての武藤博士※8のような二偉人があるので、これらの人を手本にして各自、出発点を決めよ、ということにあったようである。これで来賓演説が終わり、次に卒業生総代石毛誠二君の答辞があった。発声・内容とも素晴らしく、態度また沈着だったことには感銘を受けた。こうして式が完了したのは正午を過ぎた頃、来賓は後庭の別館「または新館」に案内され、本校の特色たる向かいの麦酒会社仕出しの洋食と大量の麦酒にて祝宴が開かれ、これまた特色である廣澤校長の挨拶「折柄の野山の景色云々」にて、主客ともに酒をなみなみとついで祝いあい、散会は午後二時だっただろうか。これを要するに、この卒業式の異彩と特色とを抽象的に言えば
一 勅語奉読 に際しての校長の容貌・態度は最も荘重かつ適切であった
二 来賓演説 の服部文学博士・安井馬政官は本校との対照は絶妙であった
三 卒業学生 の風采・服装は概して装飾なく質素である
以上の数点は最も私の印象を鮮明にしていて、私はこれに満足し、さらに他の二校に向かおうとした。ではどうであったか。

※5 ※6 ※7 ※8  クリックすると注釈がご覧いただけます

※5 アルフォール
  アルフォールにはフランスで二番目に古いアルフォール獣医学校がある。
※6 青年団をここにも発見できる
  やや茶化した表現
※7 勅語奉読(ちょくごほうどく)
  天皇の勅語を、あらたまった儀式で丁寧に読み上げることをいい、戦前までは教育勅語を学校の式典などで校長が起立して抑揚をつけて読み上げ、聴取者がそれを静かに拝聴する儀式
※8 武藤博士
  武藤喜一郎、獣医師、陸軍獣医監、家畜内科学、家畜薬理学、獣医学博士、医学博士

 

▲日本獣医学校(現在の日本獣医生命科学大学獣医学科)
人口二百万人の帝都、その古くから郊外と言われている中でも、とくに〝鐘の一つも売れない日はない※9〟と言われるほど名の通った一つの区域として、ことに春は筍飯(たけのこめし)、夏は滝、秋は紅葉で知られた霊験明かな目黒不動の山続き、前には風の余韻が絶え間ない松林を控え、後にこれまた風の音を常に聴く竹林を負い、左は目黒競馬場に隣接して遠く開け、右に雅(みやび)なる民家が断続、有名な行人坂※10まで僅か四~五町、いわゆる俗に都心からも遠くなく、仙境※11にも近いという実に一私立獣医学校にはぜいたく過ぎる良い場所に立地するのが日本獣医学校である。

東獣に遅れること七日、つまり三月二十八日午後二時に同校卒業式が講堂で挙行。式はすぐに証書と賞品授与に始まり、来年度の特待生二名を発表して、校長獣医学博士西川勝蔵氏の告辞になった。西川氏は駒場農学校の第一期、つまり明治十三年の卒業で、しかも同期卒業十五名中の首席であったことで、本邦の斯学※12(しがく)の最優秀の人物たるは疑いなく、のち母校の教授から農商務省に入局、畜産課長として令名があった。民間に下ってからは業界のために陰ながら多大な尽力をした。ゆえにいやしくも学問、業界に関わる者で氏の名声を知らない者はなく、尊敬しない者もないのである。現在、日獣の校長としてこの神聖なる壇上に立っている。痩身鶴のような威容は厳粛にして筋を通す威厳がひときわ際立っている。
おもむろに話し始めて曰くここに本校第三回卒業式を開催する。本校開校後、日は浅い※13がすでに七十五名の卒業生を出し、そのうち開業者五十三名、官庁奉職者七名、軍人六名、民間牧場会社五名、教員二名合わせて七十三名の就職者である。つまり大多数は就業者で、各方面の需要がとみに増えていることが察せられる。今や獣医師はかつての字も読めない無学の者はなく、学問ある諸君を要すること益々急であるので、諸君もまたその覚悟で世に立っていって欲しい。ここに来臨された来賓諸兄におかれてもこの卒業生のために御援助を賜らんことを請う云々。
このような簡潔な挨拶をし、続いて卒業生及び修業生一同に対して改めて慈愛に富んだ一篇の告辞を朗読したのは至れり尽くせり、というべきである。この告辞が終わると来賓の演説になった。
その第一は馬政官の丹下兼吉氏である。この盛式に臨み一言祝福せざるを得ない、として曰く諸君はここに目的を果たしてこれから錦の衣で帰郷されることであろう。そこには門口(かどぐち)で諸君を待つ人も多かろう。それはその通りである。本日は人生最大の快心の日であると同時に、また将来の行動への諸君の出発点なのである。今日までは実に平坦な道を懇切なる校長以下教職員諸子の御指導のもと、枝道に入ることなく経過してきたが、今後はそうではない。風波が最も険悪な社会の難境に教師なく、伴侶なくして進んで行かなくてはならない。ここにその最大の覚悟が必要なのである、と説き、その覚悟には機敏・誠実・努力の三点が必須の要件であるとして、例証を挙げて丁寧に反復、獣医師と蹄鉄工の前途の光明を示して、今日の卒業生がさらに社会(という)学(校)の卒業式に出席できる日の来ることを楽しみにしている、と結論したのは、最も上手で親切な演説であった。
次に登壇したのは農商務省畜産課長湯地彦二氏であった。氏の曰く我が国の獣医師の社会※14の現況は近来著しく進歩している。つまり日露戦争前に四千三十人だったものが、昨大正二年十二月末日調べで六千七十九人の多数になっている。そして年々官公私立学校卒業の有資格獣医師も益々増加し、その結果就職難の声も上がらざるを得なくなってくるであろう。しかし就職難は決して今始まったことではないと、自身が大学卒業(明治28年)時は7月卒で、その年12月奉職、という実例を挙げ、悲観せずに方向転換する利点を説き、校長の言う、本校卒業生が多く民間開業することは喜ぶべきで、本邦畜産業の発達はこうした忠実な開業獣医師諸氏に待つところが大であると推奨し、それから獣医人格論に移り、我々牛馬を相手にする者は、そうでなくてもその人格を疑われる憾(うら)みがあり、こうした恥辱をそそぐには人格を向上させ、少なくとも社会の尊敬を受ける位置にまで進まなくてはならない、これと同時に何事にも精力主義でいわゆる絶倫の努力が処世上必要である、と述べて降壇されたのであるが、畜産の当事者として最近としてまれに見る、活気に満ちており、心から敬意を払うべき演説だった。
最後に太田陸軍二等獣医正(槙太郎氏)が登壇した。氏は中央陸軍獣医界中の権威といわれ、また最近欧米視察から戻った人で、氏もまた(私が)内心敬服する一人なので、ここに期せずしてその人物が壇上にあるのは丁度ひどい渇きを一遍に癒した思いがあった。氏はまず自分が婉曲な表現での話し方に不慣れで、率直な話しかできず祝意には欠けるかも知れないが、と謙遜して曰く日露戦争後、欧米の軍事世界では、大いに我が戦跡に注目し争って人を派遣し詳細に調査して、或いは著述に或いは図書に、その数量は夥(おびただ)しいものがあるが、翻(ひるがえ)って当事者たる我が国ではどうかというと一つもないのである。これは不思議なことで、その件を帰国したある軍人が当時の陸軍大学校校長の井口中将に訊ねたところ、中将は平然として答えたそうである。『我々にはその必要はない、我々はただ腕で勝てるのだ』と言ったのである。ひと言、凛と響く声には、聞く者にあえて一線を越えさせるほどの迫力があった。私も中将の傍らにあってこれを耳にしたのだが誠に無量の感慨があったと説き起こし、この腕という一言は最もよく獣医師・蹄鉄工の現在と将来を代表するもので、諸君は徹頭徹尾、腕の人であると発奮させ自覚を教え、一転して本誌『千紫萬紅』欄に以前入選した本校一学生の、本校をフランス・アルフォール獣医学校※15に比較した一文を引用した。そのアルフォールの土地の風光明媚、空気清浄を説き、その学校の偉大さについては本校はまだその足元にも及んでいないと卑下し、さらにドイツからイギリスにわたりそれぞれの獣医学校を参観し、殊にイギリスのそれは一見とても粗雑で狭苦しい動物厩舎が不ぞろいに並んでいる有様は、その素晴らしさを大いに疑問視させるが、これはイギリスの獣医学校の誇りとするもので、数百年にわたりこのイギリスの学校の卒業生が母校のため記念に建造寄付した厩舎そのものであると驚き、こうしてイギリスの学校は世界における学界の名誉と歴史とを最も長く占めるものであるとした。日本獣医学校の卒業生諸君、諸君もまたイギリスのそれに倣って本校前途の大を図ること、かくありたいものである云々。氏の演説は最も迫力があり、来賓、学生ともに酔ったものであった。私は之を聞き本当に一貫した美文、いや、この学問の生命を教える名文と思ったのである。
来賓の祝辞はこれで終わり、卒業生代表山口建樹君が答辞を読み、ひと言一言心からのものでもっとも感動を与えるものであった。こうして閉式、来賓は校主梅野博士※16の案内で別室に清楚な立食の饗を受け、各自解散となったのは、日が傾き、夕暮れに差し掛かるころであった。前例に則して抽象的に観察すると、概ね左のような異彩を発見できた。
一 校長風格 は痩身にして背高く、一目土地柄と相応している点
二 校主容貌 はこれに反して、豊満にして恰幅(かっぷく)よく将来性を示す点
三 学生態度 は整然として規律がうかがえる点
四 来賓演説 は丹下、湯地、太田氏の三氏最も適合する点
「生活環境によって人の気持ちや考え方、性格まで変わる」の古語を真実ならしめるとすると、私はこの日本獣医学校から将来この業界に人格者が出ることを想像し、静かに帰途に就いたのだが、まだ明日の麻布があり、早々に軽重を決めることはできないのである。

※9 ※10 ※11 ※12 ※13 ※14 ※15 ※16  クリックすると注釈がご覧いただけます

※9 〝鐘の一つも売れない日はない〟
  寺の鐘のようにふだんはほとんど売れない品物でさえ、毎日一つも売れない日はないほど、たいへんな繁盛ぶりであるという意味
※10 行人坂
  目黒行人坂(めぐろぎょうにんざか)
※11 仙境
  美しい自然の景観を見せる場所
※12 斯学
  この分野の学問
※13 開校後、日は浅い
  ここで校長が本校は日が浅いと述べているが、この文章は2回の閉校後に新たに開校した日本獣医学校を指すので開校から日が浅いと述べている。
※14 獣医師の社会
  獣医業を営む者の数
※15 アルフォール獣医学校
  アルフォール獣医学校とは1764年にフランス、パリ郊外のアルフォールにフランスでリオンについで2番目に設立された獣医学校。世界で最古級の獣医師養成学校。
※16 梅野博士
  梅野信吉。1884年私立獣医学校卒業。開業獣医師でワクチン血清開発研究者。犬の狂犬病予防疫の創製が代表的な業績。明治25年(1892年)私立東京獣医学校設立。明治35年(1902年)麻布獣医学校校長。明治43年(1910年)日本獣医学校設立。

 

▲麻布獣医畜産学校(現在の麻布大学獣医学科)
三大私立獣医学校中、最古の歴史※17と最多の卒業生を持ち、校舎は高大にして設備もまた完全とも言うべき位置にあるのが麻布である。つまり私立獣医学校における麻布は、一に権威者にして、民間において唯一獣医(臨床病院)の開業が始まった場所、発祥の地であると同時にそこに人材が集まる拠点となっている観がある。
そう、誠にそうなのである。ここに至った所以は結局、校主その人の信望と併せてその絶倫の精力主義が当然発現したものにほかならない。これはこの分野の世論であり、であれば本校の権威はすなわち校主当人の権威であり、その名誉もまた当然享受すべきものなのである。校主とは誰か、駒場農学校第二期出身獣医学士、與倉東隆(よくらはるたか)氏その人である。氏は鹿児島県出身、非常に聡明で理解力や判断力に優れ、しかも度量が大きく物事に通達していて、常識に富み、理財(経営)の道にも深く精通している。その故に他の多くの同期生(の進路)が官公庁や学術研究機関に進むことに心を砕き精一杯努力していても、(與倉)氏は途中で志を変え、人材育成の仕事に携わるようになって、将来の計画を安定したものにするため、場所を現在の麻布に定めて、この学校を創立した。
與倉は時あたかも牛込河田町※18の私立東京獣医学校の閉校に際し、そこの学生で社会に迷う者を(麻布獣医畜産学校に)収容して、とんとん拍子に名誉を揚げ、あれから二十年以上の年月が経った。現在に及んでは、押しも押されもせぬ横綱格となったのである。また偉大ではないか。そして本校は校主が校長であり、名義上の校長はどうでもよいようだが、與倉校主が今や成功を収め巨万の富を積み、また日々の校務を看る煩雑さを避けて駒場第一期の先輩学士である深谷敬一氏※19を招致して校長の座を供し、自らは時局の表に出ずして校主の面目を保っている。
これは一面では深谷氏招致は最も意義ある計画で、彼の昨年の私立獣医学校界の改革にあたり、まず東京獣医学校が広澤学士を立てたのに対し、図らずも「校長の重みを何より重視する」という考え方が本校にも及び、與倉氏がすばやく中西氏に代えて深谷氏を校長に据えたことは、最も適切な人事だったという評判が高かった。日本獣医学校もまたこれに動かされてかどうか、とにかく最古参の西川学士(西川勝蔵)の推戴に至ったのは、その雛形をなしたのは東京獣医学校とはいえ、その流れを作ったのは麻布の與倉氏で確かに非凡と言わざるを得ない。
さて麻布はこのような出発点と経路を持ち、であれば今回の卒業式の盛大なることはもとよりその所以である。
即ち日本獣医学校の翌日、三月二十九日午前十時、第二十回卒業式を挙げた。定刻に一同着席、まず全員起立最敬礼中に深谷敬一校長は勅語を奉読し、ついで証書及び賞品授与、校長の訓辞終わってそれより来賓演説となった。第一に登壇したのは例年の如く、衆議院副議長関直氏、謹直な氏一流の口調で説き来たった要旨は左のようである。
私と與倉校主とは今から三十年前、大学予備門にあって互いに机を並べ勉強しあった間柄であれば、その與倉君のために何事をおいても尽力しなくてはと今日、列席してこの演壇に来た次第である。諸君は本日首尾よく卒業して今後は一安心する間もなくいわゆる世間の荒波にあい、今日まで学び得たものを実地に応用する時期になる。そもそも畜産は国家富強をなす因子にして間接的には国家の基礎をなすものであれば、諸君のこれに向けての学術の応用は極めて重要である。つまりこの応用を誤れば害毒を流し、全うすれば国家のために大きな功績となる。ただこれを全うするための道は、その職務に忠実であることにある。
以前マンチェスターに赴き同市の水道を視察した時、私の案内役であった(水道局)事務長は七十五歳の老人で年配でありながら私を案内し、施設や水源の様子などについて大変丁寧で親切に一つひとつ説明してくれた。その日はちょうど日照り続きの晴天であって、これから一週間雨が降らなければ同市全体の渇水が避けられず、そのため我々は目下昼夜不眠の勤務をしている、今や一滴の水ですらこのマンチェスター市百五十万人の生命にかかわっていると、指示する所の岩のすき間から滴り落ちる雫や、谷間を流れる細い水流までも、すべて工夫をこらした装置で引き入れて水源としようとする苦労に、私は思わず感嘆せずにはいられなかったのであった。この事務長に感ずべきことはそれだけではない。すでに同水道局に奉職以来五十年を過ぎているが、私に対して「私の仕事は終世水の番人です」と言う。この志の何と高邁にして尊いか、私はこれを聞き英国が今日の大をなし隆盛なる所以があるのを痛感したのである。
なお、我が日本にも感ずべき二人の人物がいる。一人は現内務省会計局課長大谷靖氏、もう一人は新橋駅長高橋善一氏がそうである。両氏と英国の水道局事務長は最も職務に忠実なる人物として、一世の尊敬を払うに値するべく、これを、あの「一生一代の名誉を担う」とされる総理大臣という高い身分に匹敵するどころか、あるいはそれ以上のものと見なしている。要するに、一旦自ら志した仕事はそれを天職として終生従事する覚悟がないといけないのである。すなわち一心不乱にあの水道局事務長のように、また大谷会計局長や新橋駅長のように、成し遂げる決心が必要なのである云々と、最も真摯かつ穏健に卒業生の将来を諭し発奮と自覚を勧めたのは流石に関氏、と思った次第である。
関氏のあとには有名な蔵原惟郭氏が立った。いつもの熱弁をふるい、氏独特の戦闘的な態度で論じ、生きた社会生活に対する活動を活気縦横に、しかも全身の力籠めてライオンが吠えるように力強く述べ、元来気の小さい臆病者の私などは、恐れ惑ってめまいを覚えるような思いにとらわれ、危うく気絶せんばかりであった。
これにて来賓演説が終了、卒業生代表中島義之助君の答辞にて閉式、来賓は楼上の食堂に案内され、立食の饗応をうけ各自散会したのは午後二時前であった。
本校卒業式に対する私の観察はおおよそ次のようである。
一 校長風格 肥大円満、温厚の君子らしい点
二 校舎感想 整備雄大、ただ学校の周りの環境が俗悪な点
三 学生態度 三田風のいわゆる現代式で進歩的な点
四 来賓演説 関・蔵原両代議士との対照が甚だ絶妙な点

※17 ※18 ※19 クリックすると注釈がご覧いただけます

※17 最古の歴史
  学校の創設年から言うと日本獣医学校、現在の日本獣医生命科学大学が最も古く、1881年(明治14年)に小石川に開校した私立獣医学校に始まる。しかし1889年に一時閉校。その後の1892年(明治25年)に市ヶ谷加賀町に移り私立東京獣医学校として再び開校。さらに4年後の1896年に河田町に移り、1902年(明治35年)に再び閉校。そして1911年(明治44年)に目黒に移り日本獣医学校になる。この筆者は日本獣医学校が創設から2度の閉校を経ての、1914年(大正3年)の日本獣医学校を考え、反面、1890年(明治23年)の創立以来中断なく存続し、教育を続けている麻布獣医畜産学校をもって最古の歴史と書いたのであろう。
※18 牛込河田町の私立東京獣医学校の閉校
  日本獣医学校は1881年の創立以来1889年まで8年間、私立獣医学校として存続した学校はその後閉校したり開校したりするが1896年に牛込河田町に移転するがここでも再び閉校する。結局後年再興するが、牛込河田町の閉校とはこのことである。
※19 深谷敬一氏
  1913年麻布獣医学校第9代校長

 

▲三校に対する観察上の結論
結論は簡明である。つまり東獣・日獣・麻布とも、校長がそうであるように、学生も、そして来賓ほかも又そうであるのである。
東獣と麻布とは、ある点において共通共鳴する感はあるが、日獣はそれにあずかってはいないようである。日獣は静的にして異彩もまたそこにありとすると、麻布と東獣は動的で特色はここにある。動的な印象を風とすれば静的な印象は樹にあたる。風と樹の可否については私は知らない。知る者は私以外にあるのだろう。寄語すれば天下の獣医師諸君よ、諸君がその母校を強く愛するものなるが故に私のこの観察は、或いは信じてもらえないかも知れぬが、私のように母校を右三者(麻布、東獣、日獣の3校)のいずれでもない者の目からすれば、まあ正しいだろうと感じてもらえた時、偶々その母校をぜひ訪ねてみてほしい。そうすれば、そこに必ず何かを見いだすはずであり、その小さなきっかけをつくることが出来るでしょうし、その手がかりが、愛する母校のために諸君の力をお借りするための一つの「てこ」となっていくだろうと考え、この文章を書いた。勝手な物言いをお許しください。